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 天草四朗
〜日本史上最大規模の一揆の謎の指導者〜
「大地が地響きをたてて崩れ落ち、天空には恐ろしき龍が舞い、壮絶な嵐が巻き起こるとき、肥後の国に16歳の美しき救世主が現れる。その神の子はあまねく万民を救うであろう」(天草四郎伝説)
 豊臣家が滅び、江戸幕府が始動をはじめた頃、ようやく世の中は天下泰平の様相を見せ始めた。しかし1637年12月11日(寛永14年10月25日)、ここ九州島原の地で日本史上最大といわれる農民一揆が起きた。3代将軍家光は、急きょ、全国から兵士を駆り集め、大遠征軍を組織して鎮圧に乗り出した。その数、実に13万を数える大兵力だった。しかし迎え撃つ一揆軍の士気もなみなみならぬものがあり、優勢な幕府の軍勢を相手に一歩もゆずることなく、最後の一人まで戦い続けたという。
 壮絶な戦は4か月あまりも続き、原城をめぐる攻防戦はまさに酸鼻をきわめた。すべての人間が死に絶え、もはや生きて地上に立つ者がない瞬間まで戦いは続けられたのだ。歴史上類を見ないほどの徹底的な抗戦ぶりに幕府軍は疲労困憊し、戦が終わった後も兵士たちに勝利の笑みはなかった。
 この乱を指導したのはまだ年端もいかぬ十代半ばの少年であったという。人は彼のことを天草四朗と呼んだ。日本の歴史上、永遠に伝説として語り継がれることになる天草四郎。一体、彼は何者だったのだろうか?
* 異常気象と迫害の日々 *
 寛永の時代になって、ここ九州島原の地では、天変地異とも思える異常気象がつづいていた。阿蘇山が大噴火を起こし、連日硫黄の臭いのする灰まじりの雨が降り続く中、夕焼け時には空は不吉なほど真っ赤になった。
 こうした異常気象に影響を受けたのか、秋には桜が満開となり、イナゴの大群が発生して農作物を食い荒らし、干ばつの被害がそれらに追い打ちをかけた。
 しかし農民にとって災厄はこれだけにとどまることはなかった。島原藩主(長崎県島原市)だった松倉勝家(まつくら かついえ)は、あらゆるものに重税にかけ、年貢を厳しく取り立て、キリシタンには数々の迫害を続けていたのである。
 年貢をおさめられない者は、例え女子供であっても容赦されることはなかった。妊婦を水牢に閉じ込めて苦しめ母子もろとも死に追いやることもしばしばであった。娘は見せしめのために裸にされ、逆さづりにされて火のついた薪を押しあてられて殺された者も多くいたという。また簀巻きにされて火をつけられ生きながら焼き殺された農民も多くいた。悲鳴をあげてもだえ苦しんで死んでいく様を、勝家は蓑おどりと呼んで見世物でもながめるように楽しげに目を細めていたというのである。
 かくして大凶作と容赦ない年貢の取り立て、苛烈なキリシタンへの迫害に農民たちにとって地獄のような日々がつづいた。人々の間では、もう自分たちはとても生きていけない。まもなくこの世は終わるものと考えるようになった。日ごとに餓死する農民たちは数知れず、彼らは心の拠り所として、ひとつの伝説を語り合うようにまでなっていた。
 それは、この世も終わるような大天変地異が起こる時、一人の少年があらわれるという謎の伝説である。その美しき少年こそは、疲弊した人々の救世主になるだろうというのである。
* 謎の美少年天草四郎 *
 ここに天草四郎の生誕について触れたいと思う。天草四朗は本名を益田四朗時貞(ますだしろうときさだ)と言ったらしい。父親はキリシタン大名、小西行長の遺臣、増田甚兵衛であったといわれる。行長は元、豊臣秀吉の重臣で関ヶ原の合戦で、敗軍の将として斬首された大名として知られている。
 四朗については、さまざまな言い伝えが残っている。盲目の少女の目を触れるだけで治したとか、海面を歩いたとかいう話、また小鳥の止まっている枝を折っても逃げなかったという話が伝わっているが、しかしこれらはキリストにまつわる奇跡とよく似ており、すべて信ぴょう性に欠ける。恐らくは、四朗の神格化のために、こうした自然界の異常気象と四朗のもつ霊力が積極的に結びつけられたのではないかと考えられる。
 しかし、こうした伝説が残されているというのも、四朗にかなりカリスマ性があったということを証明するもので、キリシタンたちから熱狂的に支持されたと容易に想像されるのである。またちなみに四郎は相当な美男子であったとも言われている。
 島原の乱は領主の暴政に苦しみ耐えかねた農民たちが、切羽詰って一揆をおこしたのであったが、中世のフランスで起きたジャンヌ・ダルクの「オルレアンの乙女伝説」とひじょうによく似ている気がする。
 祖国が危機におちいった際、年端も行かぬ少年少女が救世主(メシア)として登場するという筋書きは、キリスト教の根底にある考え方と思われるが、なぜか天草四朗の登場もまったくの偶然とは思えないのである。
* 過激化するキリシタンへの迫害 *
 もともとこの島原という地は、キリシタンが多いことでも知られていた。当時全国にいるキリシタンの1/10ほどがここ島原の地に集まっていたという。ところがキリスト教が禁じられ、キリシタン大名として知られる有馬晴信が贈賄事件の発覚によって、流罪地に流されて死亡してしまうと事態は一変してしまった。
 嫡男であった直純がその後を継いだが、彼はキリスト教を潔く思わず、逆にキリシタンに迫害をくわえはじめたのである。
 こうして、ここ島原の地はキリシタンと反キリシタンの衝突が常に繰り返されるようになる。いつ内乱が起こってもおかしくない条件がそろいつつあったのである。
* ついに一揆が勃発!*
 寛永14年10月25日(1637年12月11日)、日本史上最大の一揆、島原の乱が起こることになるこの日、有馬村の代官であった林兵左衛門(はやしひょうざえもん)は、一軒の農家で農民たちが集まっていると聞いてやってきた。30人ほどの農民たちが壁にかけられたイエスを描いた張り紙の前で祈りをあげているのが見えた。左右には火がくべられてぱちぱちと音をはぜている。
 彼は祈りをあげている農民たちの中に割って入っていった。「白昼堂々と天主(キリスト)教の慰霊祭を行うなど不届き至極。誰の許しを得てこのようなことをしているのか!このようなものを崇めおって!」代官は吐き捨てるように言うと、キリストの絵を引きはがして細かく引き裂くと火に入れて燃やしてしまった。そして刀を抜いて農民たちを追い払おうと威圧した。ところが逃げ出すどころか、農民たちは手に手にこん棒のようなものを握りしめていざり寄って来た。恐ろしい形相である。命の危険を感じた代官が今度は逃げ出そうとすると、周囲を取り囲まれてしまった。
「うぁー!助けてくれ!」「ボキッ!バキッ!」骨の砕ける音がした。たちまち代官は頭と言わず背中といわず、身体じゅうを滅多打ちにされてなぶり殺されてしまった。
 この瞬間、苛酷な勝家の暴政に、積もり積もった農民の怒りがついに爆発したのである。いったん噴き上がった彼らの怒りは凄まじく、隣接する村々でも代官を次々と殺害した。やがて暴動の嵐は周囲を巻き込んで、拡大の一途をたどっていく。もはや、松倉藩単独ではとても鎮圧できそうにもなく、たちまち島原は内乱状態となった。
* 怒り狂う一揆軍 *
 これに呼応するように、数日後には海を隔てた天草でも一揆が蜂起した。一揆軍は唐津藩の富岡城を攻撃、これを落城寸前まで追い詰めた。そのとき幕府の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、退路を断たれては危険とばかり、有明海を渡って島原半島に移動した。
 ここに島原と天草の一揆勢は合流することとなった。その総数は3万7千人ほどで、内訳は男子2万3千人、女子供1万4千人あまりであった。
 島原城の奪取に失敗した一揆軍は、そのまま原城に向かった。原城は有馬氏が島原城を構築した際に捨てられて廃城となっていたが、一揆軍はこれを修復し、奪った武器弾薬や5千石あまりの米を運び込んで討伐軍の攻撃に備えようと考えたのである。元来、原城は背後を海と崖に囲まれており、守るにはいい条件であった。
 ここに至って事態を重く見た幕府は、これを鎮圧するために大掛かりな討伐軍を組織しようとしていた。老中の松平信綱が総大将となると、九州の諸大名に号令をかけ、たちまち原城を攻めるための13万名におよぶ兵士を総動員してきたのである。
* 原城内に立てこもる *
 幕府軍が迫っているという知らせを受けて、一揆軍にも一刻の猶予はなかった。敵が攻めてくるまでに、原城を難攻不落の要塞にしてしまわねばならない。女子供は城外に出て海岸などで大小の石をかき集めては、せっせと城内に持ち込んだ。これらは戦闘時には敵に向かって投げつけるためのものなのだ。
 原城内では、半分ほど地下を掘り抜いて大小さまざまな小屋が林立していた。その中でひときわ大きな礼拝堂のような建物が目立ったが、その中に四朗がいると思われた。
 鉄砲は2千挺ほどあったとも言われているが、実際は8百丁ほどであった。そのほか、大砲は3門ほどが備え付けられていたという。
 こうした情報は、城内に忍び込んだ甲賀忍者によってもたらされた情報であった。
原城跡を上空より眺めた様子。背後を海に囲まれ、城は断崖の上にあった。自然の環境を利用した要害であった。
 その日、多くの民衆の前に四朗が壇上に姿をあらわした。黄金に輝く十字架を胸にかけた四朗は、両手を天高く差し出すと、ひときわ大きな声を張り上げた。青年らしいその透き通るような美声は天にまで吸い込まれていくようであった。
「尊き天守様! 御母聖マリア様! 我らはともにキリシタンとして主の御心にお仕え申し上げる者です。ここにいる全員は来世においても永遠に友として生きる者たちです。天守様、願わくばどうか我らに力をお与えください。我らは身をすてて死する覚悟がゆえ、永遠の生命を得るものなれば、何とぞ闇あるところに光をもたらしめたまえ。アーメン!」
 民衆からものすごいどよめきと、四朗を賛美する大歓声があがる。それは心の奥底から突き上げてくる、感情や知性などとは違った魂の雄たけびとでも言った方がふさわしい群衆の叫びであった。
 このとき、原城の外では着々と幕府軍が布陣しているのが見渡せた。いまや13万の軍勢に膨れ上がった幕府軍は、陸と海から原城を完全に包囲しようとしていた。もやのような砂塵が吹き荒れる中、敵味方双方とも旗がちぎれんばかりにたなびいている。まもなく一大決戦の火ぶたが切って落とされようとしていた。歴史上最大と言われた一揆軍と幕府軍の命運を分けるであろう運命の瞬間が刻一刻と近づいていたのである。
* 壮絶な攻防戦 *
 東の空がうっすらと赤みをさすころ、戦いの火蓋は切って落とされた。総攻撃が一斉に開始されたのだ。海からは船に乗せた大砲が火を放ち、原城に向かって砲弾が打ち込まれた。同時に、原城の大手門には有馬、松倉、鍋島など2万を越す幕府の主力が「ワーッ!」とばかり押し寄せてきた。
 一方、城内からはキリシタンの祈りが斉唱する声が聞こえてきた。まもなく「さんたまりやのおひしよ!」(聖マリア様の意味、ポルトガル語)というときの声が一斉にあがった。かくして一揆軍のすさまじい反撃が始まった。女性や子供たちは、全員がたすきをかけて、頭には十字を刻んだ鉢巻きをしめ、石垣をよじ登って来る敵めがけて石などをさかんに投げおろした。また、それに加えて鉄砲が立て続けに火を噴いた。「ヒュン!ヒュン!」という鋭い音を響かせて、幕府の兵士たちに向かって矢が放たれる。たちまち幕府軍に死傷者がうなぎ上りに増加していった。
 石垣に取りつき、はしごで登ろうとして、飛んできた石つぶてに頭を割られ、断末魔の叫びを響かせて落ちてゆく者、ぐつぐつ煮えたぎった熱湯をかけられて、頭をかきむしるようにのたうち回る者、喉に矢が突き刺さり、隣の兵士を巻き添えにして、真っ逆さまに落ちてゆく者、そこら中、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開された。予想以上の一揆軍の抵抗に幕府軍は一瞬とまどった。
 二時間後、大手門に殺到した幕府の主力は、一揆軍の頑強な抵抗の前に粉砕されてしまった。短期間に決着がつくと見た幕府側の完全な誤算であった。このとき幕府側の死傷者数は約4千、一方、一揆軍の死者数はわずか90名ほどであったという。
 ここに至り、幕府軍は戦法を変えることにした。原城を見下ろす位置に築山をいくつも築き、ここから大筒や石火矢を原城内に雨あられと打ち込もうとしたのである。さらに原城周囲にぐるりと丈夫な柵を設けて、兵糧攻めにし、一揆軍の士気をまず低めてから、決戦に持ち込もうと考えたのだ。
* 巧妙な心理戦 *
 持久戦に持ち込まれて、しばらくすると、幕府側から矢文が何本か原城内に打ち込まれるようになった。これは一揆軍の士気を乱し、陣中より裏切り者を呼び込むための心理作戦と言ってもよかった。矢文には次のような内容が書かれてあった。「もし、和談に応じるならば、飯米として2千石を与えよう。また当分の間は年貢は免除する。今後は年貢を3割ほどに減らしてもよい」
 それに対して、原城から次のような文面を携えた矢文が送り返されてきた。「我らはいささかも国家に背くものではない。我らは松倉の暴政に長年苦しめられてきた者である。我らは決して死を恐れはしない。むしろ戦って死ねるならば、極楽に行けると信じている」
 これより数日後、今度はこんな内容の矢文が原城内に射込まれた。「改宗に応じるならば、田畑を与えるものとする。しかし宗門を堅持すれば男女ともに成敗する」
 これに対する一揆軍の答えは「我らに私利私欲はない。ただひたすら天主の教えを守ることが唯一の志なり」というものであった。
 こうした矢文による応酬は数回行われたようだが、双方とも相手の心を図りかね、妥協点を見出すことが最後まで出来なかったと思われる。
* 最後の決戦 *
 2か月目になると、幕府側の持久戦と兵糧攻めが功を奏してきた。さすがに城内の兵糧は底をつき出した。江戸からは幕府の威信にかけて城攻めを急ぐように再三の命令が出されていた。
 一揆軍は夜打ちを何回か決行し、幕府側の武器や兵糧を奪おうとしたがことごとく成功はしなかった。その際、討ち取った一揆軍の戦死者の腹を裂いたところ、青草しか出て来なかった。いよいよ兵糧が尽きてきたと判断した幕府側は二度目の総攻撃を敢行することにした。
 2月28日の深夜、満を持して幕府軍は攻撃に移った。数百本の火矢が放たれ、原城内の小屋は炎上し、黒煙がもくもくと上がる。飢えと疲労に弱り切っていた一揆軍に、もはや幕府軍の攻勢をはねかえす力はなかった。
 それでも一揆軍は、ありとあらゆるものを取り出してきては応戦した。大石や大木が投げられ、投げつける大石がなくなれば、古苫やむしろに火をつけて投げ、それもなくなると、炊事用の鍋釜まで投げつけて抵抗した。そしてついに一揆軍は力尽きた。
 やがて幕府の兵士たちが怒涛のごとく原城内に乱入してきた。
 一人も生かしておくなという命令だったので、老幼女子供に至るまで、すべて斬り殺され、あるいは刺し殺されていった。この最後の総攻撃で、原城内にいた一揆軍は、ことごとく皆殺しにされたと言われている。
原城の落城の様子。火矢が数百本打ち込まれ  、城内は炎上している。これから幕府群が乱入して大虐殺が始まるのである。
 翌日の午後には戦闘は終わった。このとき、城内には多くの幼い子供たちも生き長らえていたという。糧食が絶えて久しく経過しているにもかかわらず、このような子供たちが、一人も欠けることなく生きていたというのも、戦闘員、非戦闘員の区別なく公平に食物が与えられていたためなのであろうか。彼らキリシタンにとって、すべての人間は平等であった。
 落城後、3日ほどかけて、生き残っていた女子供3千人も次々と斬首されたが、すべての者が喜んで死を受け入れたと記録されている。10歳ほどの童女が両手を合わせて、まさに首を刎ねられんと差し出す様子は、涙を誘うものであったが、その反面、笑みを浮かべながら喜んで死のうとするようにも思え、何かに憑りつかれているようにしか見えなかった・・・。「島原天草日記」にはこのように記されている。
* 天草四郎の最期 *
 天草四朗の最期はよくわかっていない。2月28日深夜から原城本丸をめぐって激しい攻防戦があり、四朗はそのとき本丸内で討ち取られたのではないかと想像される。立派な服装をした少年の首を四朗だと判断して、幕府へ送られたという話もあるが、幕府側には天草四郎の姿や詳細な情報が全く伝わっていなかったので、これが天草四郎だと断定することは出来なかったという。しかし「肥前国有馬戦記」を見る限り、天草四郎とその関係者たちのことが詳細に記されている。
 これによると、原城が落ちた後、討ち取られた四朗らしき少年の首が数十個ならべられ、首実検が行われたという。連れ出された母親は、次々と取り出されたそれらを見ても「四朗は神の子です。白鳥となってはるかルオン島にでも飛んで行ったのでしょう」と言って少しも臆することもなかった。ところが、やせ衰えたひとつの少年の首が持ち出されると、それを一目見るなり、たちまち青ざめて落涙し、「変わり果てたる四朗!どんなに辛かったことか、どんなに苦労したことか!」そう言ってひれ伏し、激しく泣き叫んだという。
 この様子を見た幕府側は、これ以上は尋問する必要もなかったと記録されている。数日後、四朗の母親、おい、姉妹なども次々と連れ出され、全員が斬首されたということである。
* 島原の乱が幕府に与えたもの *
 かくして、多くの人々の怒りと悲しみを巻き込んで、凄惨な戦いをくり広げた島原の乱は終わった。しかし幕府軍の損害も大きく、負傷者、戦死者合わせると1万名以上で、ただの農民一揆と甘く見た幕府側の代償はあまりにも高価なものについたと言えよう。
 原城をことごとく破壊した幕府側は、それでも腹の虫がおさまらぬのか、打ち殺した老若男女の遺体を石垣の下の掘に乱暴に放り込んだ。そして、その上からは土砂や瓦礫、石垣に使われた岩などが無造作に放り込まれたという。
 島原藩主だった松倉勝家は、過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いた責任を問われて4万石の所領を没収されたうえ斬首となった。また同様に、唐津藩(佐賀県唐津市)の藩主、寺沢堅高(てらざわ かたたか)も一揆を招いた原因をつくったとして責任を問われ、天草の領地4万石を没収された。寺沢堅高は減封により、家臣団の維持もままならず、出仕も許されず、生き恥をさらす日々に耐えかね、精神異常をきたして死んだという。
これ以降、幕府は反幕勢力になりうるかもしれぬキリスト教をただただ恐ろしいものだと考え、二度とこうした反乱を起こさぬように、キリシタンを根絶やしにしてしまおうと考えることになった。これにより、多くの代官所で絵踏みが行われることになる。これは、キリストやマリアの像を描いた真鍮製の版を足で踏ませようというもので、信者のたいていは、直前になって踏むことをためらい、ひざまずいて許しを請うことが多かったので、容易にキリシタンを見つけられたと言われている。
 さらに幕府は、五人組制度などを導入して、農民へのしめつけを強化した。自由を奪われた農民たちは食料生産に従事するだけの奴隷階級への道を余儀なくされてゆく。
 鎮圧から1年半後、寛永17年、幕府はポルトガルとの貿易を止め、日本は本格的に鎖国の道を歩み出した。そうして、ペリーが来航するまで日本は長らく近代化への道を閉ざされることになる。
* 幾万の人々の無言の願い *
 原城の発掘は現在も毎年続けられているが、外堀があった場所からは、多くの人骨が掘り出されている。人骨はほとんどがバラバラで現状をとどめておらず、折り重なるような状態で発見されている。どれが一体分なのか見当もつかないほどだ。
 また人骨の歯の付近には青銅製の十字架やメダルが発見されている。彼らは死に際し、これらを口に含んで戦ったのであろうか?
 発掘されたものの中には黄金製の十字架もあった。これは四朗が身に着けていたものだったのだろうか?
 今も原城跡に立つと、打ち寄せる白波の音が聞こえ、その合間に小鳥たちのさえずる声が響きわたる。白い断崖が陽光に反射してまぶしく、美しい緑の森を心地よいそよ風が吹きぬける。これらは3百80年前の景色といささかも変わるものではない。
 しかしこの場所に立つと、幾万の人々の声なき叫びが風に混じって聞こえてくるような気がする。当時この場所で、いかに凄惨な殺戮が情け容赦なく行われたかが知ることが出来るのだ。そして同時に、神を信じて最後の一人まで戦った人々の怨念を容易に想像できるのである。
 正義を信じてひたすら戦った神の子、天草四郎。彼の魂は決して滅びることはないだろう。私たちの心の中で美しく輝いた姿のままこれからも永遠に生き続けていくに違いない。
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参考文献・・・「島原の乱とキリシタン」五野井隆史 吉川弘文館
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